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深セン博物館について 目次
【目次】 深セン市、市民中心のそばにある、「深セン博物館(新館)」について書いた記事です。この記事は3ページに分かれています 1、1階の説明(行き方、入場料、開館時間) 2、2階の説明(深セン古代〜近代の歴史)→このページ 3、3階の説明(経済特区となってから現在までの発展) |
深セン博物館2階
昨日は、深セン博物館の1階部分を紹介した。今日はその続き、2階部分を紹介したい。エスカレーターで2階に上がってきた。
1階も結構見どころがあったが、ここからがやっと深セン博物館のメインである。
2階は「古代深セン展」「深セン民俗文化展」「近代深セン展」の3つのエリアに分かれている。
まずは、「古代深セン展」を見ることにした。
古代深セン展
場所は2階のここ
今や抱える人口が1500万人とも2000万人ともいわれる深セン。いったい歴史はどれくらい前からあるのだろう。
この「古代深セン展」は西暦前5000年から西暦1839年までの歴史資料が展示されている。
第1~5部まで分けられており、以下のように区分されている。
第一部(西暦前5000年~西暦前221年)
深センの最も古い歴史は大鹏地区(深センの東側)から始まったらしい。西方から来た人が移民して住みつき、そこからこのエリアの人類の歴史が始まった。
その頃に使用されていたとされる石器等が展示されている。
何千年も前の土器が目の前にあると思うと、神妙な気分になる。
これらは、かなり貴重なものではないだろうか。
第二部(西暦前221年~西暦589年)
有名な秦の始皇帝の時代。秦の時代の末期、深センはベトナムに統治されていたようである。
当時の様子
どことなく、漫画「キングダム」に出てくる人の雰囲気が出ている。キングダムはこの時代を扱った漫画で、服装も忠実に再現されているようである。
当時の石器はこんな感じ
当時は塩田がたくさんあった
こんな感じで塩を作っていた
そのうちの一つが現在の「塩田区」である。
なるほど、塩田の名称の由来は「塩田」だったからなのか。
ちなみに、今の塩田区はこんな感じになっている。
第三部(西暦581年~西暦1839年)
この時代、深センは海洋経済の通過点として栄えた。広州の海外貿易が発展するにしたがって、深センは「粤海门户(広東地地区の扉)」と呼ばれるようになった。
これは大鹏所城のジオラマ
実際に大鹏にある大鹏古城に行った時の記事はこちら
第四部(西暦1368年~西暦1839年)
この時代には海からの侵略があったようだ。広東省の沿岸地域にあった深センは敵からの侵略を防ぐための重要拠点となった。
海戦の様子
血なまぐさい戦争の時代である・・。
第五部 古代移民について
深センはここ30年あまりで、移民によって人口が30万から1500万~2000万に増えたことが知られている。しかし、深センの長い歴史の中で、移民は何度も行われてきたのである。
移民とともに文化が広がったのだ
深セン民俗文化
次に紹介したいのは深セン民俗文化展だ。場所は2階のここ
深センの過去の文化について扱われており、ここは4部に分かれている。
当時の建物を再現しており、よくできている。
当時の人たちの蝋人形をバックに写真を撮ると旅行の良い思い出になるだろう。
第一部分 区域民俗
春、土地を耕す前に行われた儀式、「鞭春」の様子この儀式が春の訪れを意味した。「鞭春」は別名「迎春」とも呼ばれたのである。
第二部分 広府民俗
唐、宋の時代頃、深センの政府「広府」は書院、家塾、教坊(学校)などを設置した。それによって、当時の人々の文化レベルは著しく向上した。
また、人々の商業や生活がうかがい知れる展示がたくさんある。何百年前とは思えないほど高い文化をもっていたのだ。
これも室内。当時の街が再現されている
きっと高貴な人なのだろう
酒屋
当時の街を再現している
ボケてしまったが・・学校。音声が流れていて、当時の子供たちの勉強の声が聞こえる
第三部分 客家民俗
客家(ハッカ)は現在でも広東省の主要な文化のうちの一つである。彼らの文化がわかる展示がたくさんある。
客家人の建物の門
客家人の食事の様子。大皿のおかずをみんなで食べるスタイルは今も変わらない
客家人の結婚式
客家人の儀式
第四部分 海洋文化習俗
深センは海に面していたので、海から様々な文化が入ってきた。漁民の結婚式の様子らしい。めっちゃリアルな蝋人形!
近代深セン
次に見たのは「近代深セン展」である。場所は2階のここ
扱われているのは1839年以降の歴史である。
近代の戦争の歴史、イギリスの侵略、などについても扱われている。
1839年9月4日の九龍海戦の様子
防具はつけておらず、かなり軽装である。
領土がどのように変わっていったのかがわかる
南京条約の表紙。なかなか貴重な資料だ
イギリスが香港を侵攻した時の様子について説明されている
深センは当時「宝安県」と呼ばれていた。1928年2月23日、「宝安県」で初めて共産党の代表会議が行われた。
当時を再現した蝋人形
中のようす。広い!
当時の貴重な新聞記事
当時の深センの人口。1917年~1949年ころは20万人くらいである。
昔の深セン市羅湖駅
昔の深セン市平湖駅
当時発行された債券。これもなかなか貴重
さて、2階はこんな感じである。かなりの量の写真を掲載したが、これでも一部である。
とにかくすごい情報量だ!
正直2階を見終わった段階でそろそろ疲れてきたのだが、まだ3階があるのだ!
頑張って3階も行くぞ!
では、次に3階へ!
3階の説明(経済特区となってから現在までの発展)
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